Brillia Art

Brillia x ART 対談逆光で表現された写真の淡さと、
添えられた文字の力強さが表現するもの

BAG-Brilia Art Gallery-で
10月29日まで開催の展覧会「齋藤陽道 絶対」では、
写真家 齋藤陽道氏の作品が展示されています。
今回は齋藤氏と、同展覧会のデザインを手がけた
アートディレクター・寄藤文平氏による
対談をお届けします。
齋藤陽道氏の写真集『感動』(2011年)
『感動、』(2019年)、著書の装丁などを通じて、
これまでも何度か一緒に仕事をしてきた
というお2人から、
展覧会の写真やデザインを通して
感じたお互いへの思いについて、
筆談形式でお聞きしました。

【絶対】はステレオタイプの
写真ではない

無限にあるフォントデザインの中で、
あえて尖らせた寄藤氏の思い

写真家
齋藤 陽道 様

齋藤 お久しぶりです!寄藤さんに初めてお会いしたのは、僕の初めての写真集『感動』をデザインしていただいたときなので、2011年ですね。あのとき、わ!『ウンココロ』(寄藤さんの著書)の人だ!と思いました(笑)。今は、子どもが大好きで、よく読んでいます。

寄藤 確かに2011年だったね。僕の陽道くんの第一印象は、(アフガン・ハウンドのような犬のイラストを描きながら)きれいな長毛種の犬みたいだな、という感じでしたよ。

齋藤 今回も、すごくかっこいいデザインをありがとうございました。この【絶対】という文字は、文平さんのオリジナルですよね。デザインはどのように決めているんですか。

寄藤 もちろん今回のためにデザインしました。要は、無限にある書体のグラデーションの中で、【絶対】をどこに位置づけるか、という話です。まず、明朝体だと【絶対】という言葉がステレオタイプに響いてしまうので、これは違うと思った。さらに【絶対】シリーズの写真は色が淡く、“聖性”がやや露骨にイラストレーションされていると僕は感じたので、文字はそれを押さえ込むほうがいいと考え、尖りのある癖の強い造形にしました。

齋藤 うれしい!僕自身、“聖性”というかキラキラしすぎるように見られることにすごく抵抗があるので。

寄藤 同じ!

齋藤 以心伝心!

寄藤 ただ僕は、陽道くんの近年の写真の印象として、“聖”や“聖性”、“霊”や“霊性”に対して自覚的になっているように感じているんだよね。そして僕は自覚された“聖性”“霊性”というものに、やや疑いを持っているんだけど、陽道くんは、どう思う?

齋藤 うーん、むずかしいな……。でも確かに、初めての写真集のときに比べると、聖性や霊性は意識するようになったかもしれません。

アートディレクター
寄藤 文平 様

尊重を表現したら【絶対】が生まれた

作為的でも偽善的でもいいから伝えたい、
尊重しているという思い

齋藤 僕は、逆光で写真を撮る「絶対」シリーズを15年ほど前から続けています。きっかけは、初めてペンタックス67を手に入れた時、たまたま逆光で撮った写真がおもしろいと感じたこと。それでちょくちょく撮ってはいたのですが、実は今の表現に行き着いた転機になることがあったんです。

僕には、筆談も手話もできない車椅子の友人がいるんですが、お互い思うようにやりとりできないので、彼女を撮る時はいつもためらいがありました。彼女との間には、確かに信頼関係はあるんだけど、それを言葉にして伝えられない。ただ写真を上手に撮れば、それでいいのだろうか、というジレンマがありました。そんな葛藤の中、ある冬のよく晴れた夕方に逆光がパーンと彼女を貫いているのを見たときに、「これを撮ろう!」と思ったんです。

根本にあったのは、作為的でも偽善的でもいいから、とにかくあなたを尊重していますという気持ちが伝わればいいな、という思いでした。もちろん恥ずかしい気持ちはあります。一歩間違えると、「ほっこり」と言われるような、浅くてジメッとした情緒的なものになってしまう恐れや不安も、十分に感じています。でも、そんな自意識よりも、ビジュアルだけで相手に有無を言わさず伝わるものが撮りたい、という思いが勝りました。

寄藤 そうか、すごく理解できました。中でも「尊重」という言葉にとても響くものがありました。「絶対」=「尊重」というつながりが、この写真の中にはあるんだね。

齋藤 ずっとためらいはあります。だからこそ今回の寄藤さんのデザインが、僕のうまく言えないもどかしさを晴らしてくれたと本当に驚いているんです。不安に感じていた、余分な情緒を祓ってくれたというか。

寄藤 おそらく僕も、陽道くんのこの感覚に共鳴したから、デザインとしての表現が、この【絶対】になったんだと思います。

“エモさ”の中にある自然への畏怖

【絶対】の中には、
ステレオタイプとは異なる“エモさ”がある

寄藤 ところでさっき、この【絶対】シリーズの起点について話してくれたけど、この10年で「撮る」ということはどのように変化したかな?10年というと、1つの物事を定点観測する期間になると思うし、自身の変化を感じやすいのではないかと思うんだけど。

齋藤 まずプリントの形が定まるまで、10年かかりましたね。僕はフィルムで撮っているのですが、アナログプリントするとだとここまでコントラストが出せないので満足できなかった。そこでアナログプリントをスキャナでデジタルデータ化したうえで、調整することにしました。また用紙も、普通の光沢紙だと、デジタルプリントはインクが乗るだけで光の感じに欠けてしまうので、迷いに迷い、クリスタルペーパーという超光沢紙にラムダプリントというアナログプリントする手法にたどり着きました。長かったですね。

寄藤 この10年は手法的なことが追いついてくるために必要な時間だったんだ。いわば、テクニカルな深化だね。

齋藤 立っているところは同じだけど、その足元に向かって深化している感じですね。技術と気持ちが【絶対】を作る中で磨かれたなと思います。

寄藤 確かに、「逆光」と「フレア」で表現するってものすごく難しいもんね。撮ることも難しいと同時に、撮られた写真が“エモい”的なステレオタイプの穴に簡単に吸い込まれてしまう。それに抗う質がないと成立しないところが、さらに難しいと思う。

齋藤 目(耳)が痛い……。頑張らなきゃ、脱エモ!

寄藤 陽道くん自身は“エモ”についてどう思う?最近、“エモ”が写真表現の中心軸になっていると思うけど、一方で急速に消費されつつある感受性でもあると思うんだ。ちなみに、“エモ”でない写真は、記録(ジャーナル)や象徴に位置づけられると僕は思っていて、陽道くんの【絶対】は、こちら側だと思うんだよね。

齋藤 僕が思う“エモ”とは、「ホワーン」(淡い)、「フワーン」(何が映っているかはっきりしない)、「いやーん」(エロチック)という感じ。その中でも特に、自然の存在をしっかり取り込んでいるものに、“エモ”と力強さを感じます。逆に、人だけ、街だけという写真は自意識が強くいやらしいな、と。ただきれいなだけじゃなく、そこに自然の畏怖を感じていることが表現されている写真が“エモ”くて強いと感じるんです。この感覚が、【絶対】シリーズを続けるうえで大切にしていた思いですね。

寄藤 陽道くんのいう“エモ”とは自然の抽象という考えは、すごくおもしろいね。そういわれてみると以前、SNSでものすごく”エモい”絵を見つけて、この作家さんに連絡したいと思って調べたら、なんとモネだったんだよ(笑) 僕は今回の【絶対】シリーズは、モネに通ずるものがあるような気がしています。

齋藤 えええ、光栄!

アートは特別なものではない

見方を変えれば日常の中にもアートはある

寄藤 この、陽道くんの写真展が行われるBAGは「暮らしとアート」をテーマにしたギャラリーだそうですね。今日ここに来て、素直に気分のいい空間だと思いましたよ。たまに「花はなぜ美しいのか?」っていう議論があるでしょう。でも、花ってものすごく多様な形があって、美しくない花もあるし花に見えないものもある。人間が美しいと感じるごく一部のものだけが「花」って呼ばれてるんだよね。それと同じで、たとえアートって呼ばれていなくても、すごく多様な形でアートはあると思うんだよね。「暮らしとアート」っていうのはそういうアートを発見していくことなんだろうと思う。陽道くんの写真展がここで行われることは、そういう点でもふさわしいと思いました。

齋藤 ぼくもアートは特別なものではなく、自分の見方次第で何でも作品になるし、作品にできるんだという思いがあります。たとえば、子どもの行動はすごくおもしろいし、「そういう捉え方もあるのか」と驚かされることもあるように。

最後に、写真を通して見るものに何かを感じさせてくれる齋藤氏の今後にも注目してください。

齋藤 陽道
1983年、東京都生まれ。2020年から熊本県在住。 都立石神井ろう学校卒業。2010年、写真新世紀優秀賞。 2014年、日本写真協会新人賞。2019年、『感動、』で 木村伊兵衛写真賞最終候補。Eテレ「おかあさんといっしょ」の エンディング曲「きんらきらぽん」の作詞を担当。 写真家、文筆家としてだけでなく、活動の幅を広げている。 
寄藤 文平
1973年長野県生まれ。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科中退。1998年ヨリフジデザイン事務所、2000年有限会社文平銀座設立。近年は広告アートディレクションとブックデザインを中心に活動。イラストレーターとして挿画の連載や、著作も行う。
PAGE TOP